あとでかんがえる

話したいことを話すだけ

14年続けた日記を辞めた

何でもいいから書くと良いと言われた。

おれは11歳のときから日記を書き続けていたんだけれど(たまに途切れることはあれ)、去年から同棲をはじめたことによって、その継続は途絶えてしまった。そのことについて特に不安はない。もともとしていなかったことを、また辞めただけだ。しかし、ちょっと待て。もしかしてこれは不安がないことが問題なんじゃないか、と感じ始めた。

そうして不安が生まれた。よかった。

日記を書いていたことで、おれは多くの恩恵を受けていたはずだ。はからずとも。日記を書くことの効能とかはよく知らない。けれど、日記を辞めた今、日記を書いていたころに感じていなかった思いに気付き始めている。

日記を書かないといけないと思うと、不思議とその一日を充実させたくなる。昨日より今日、今日より明日、というように。まるで昨日の自分と競っているかのような今日を生きることになる。それはもちろん生産性の話ではなく、より多様な、より複雑な人生を生きたいという満足感へ無意識的に誘われている。人生の連続性を意識することで、自分という生へ、より責任感や説得力を寄与することができるんじゃないかな、と思う。まぁこれはこじ付けだ。要は書いて気持ちよければ何でも良い。

日記を書いていたからといっても読み返すことはあまりなかった。書くことが目的であり、習慣になる。書いた後の日記はただのデータであるため、日記を書くことと読み返すことの目的は全く異なる。そうだとするなら、たとえただのブログであっても、こうして書き殴っておくことにはそれなりに意味があるように思える。少なくとも、目的は達成される。

新しい試みとしては、他者が閲覧できることだ。それは別にかまわない。読んでもらえても良いし、読んでもらえなくても良い。読まれて困ることも書かない(たぶん)。

余談だけれど、他にもブログをやっている。これはなかなか面倒で、すでに人格が見透かされ、書かなければいけない内容とでもいうべきものが規定され、交通法の定まった道路を走っているように不便な気分だ。

交通法を守っているからこちらは安全かと言うとそうではなく、向こうからぶつかってきたり、煽られたりすることがある。全く困ったものだけれど、ネットってそういうものだ。

 

同棲をはじめたことにより生活にリズムが生まれた。彼女とおれはチームになり、お互いの将来を交換し、それぞれの人生に責任を持たなければいけなくなった。それは素晴らしいことだし、極めて人間的な、社会的な営みだと思う。おれのようなどうしようもない人間にもこういうことができたんだと驚くこともある。

しかし、やはりこういうことには向き不向きがあり、人間としては充実していても、おれという個人は日々殺されている。やりたいことはだいたい叶うことなく、言いたいことも言えない。相手の都合を考えることを優先しなければならない。それは相手においてもそうであるが、おれと比べると相手の方は自分の抑制を条件に社会性を手にすることがあまり得意ではない。こうなると厄介だ。

最近はおれが無理を引き受けることで得られる社会性を一度疑ってみることにした。おかげで相手は口も利いてくれないが、おれは精神的に楽になった。

 

迂遠してしまった。このようなことは知人には話せないし、ましてや相手にも見られては困る。困るけれど、まぁ、いいかな、くらいには思っているけれど。

たまにはこうしてここに書き捨てておきたいと思う。

次回はいつかは分からない。